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『竜とそばかすの姫』のネタバレ感想です

話題の新作『竜とそばかすの姫』を鑑賞したので感想を書きました。ネタバレと批判的な点があるので、この作品が好きな人は読まないのが吉です。また、1回観ただけなので、細かい記憶違いの点があるかもしれません。

薄いポエジー
『竜とそばかすの姫』原作・脚本・監督:細田守 企画・制作:スタジオ地図 2021年7月16日公開

「あの監督の作品はどこか薄っぺらい」と家族に言われた。『竜とそばかすの姫』の感想を話したら返ってきた言葉である。それはキャラの信ぴょう性の薄さかと考えた。確かに細田監督作品は、いつもヒロインがどこか理想化されている。『サマーウォーズ』の先輩ヒロイン篠原夏希しかり、『おおかみこどもの雨と雪』のヒロインである花しかりである。細田監督の女性主人公は、他人へのケアと自身の強さや自制心を併せ持ち、しばしば理想的な母親像が仮託されているようにみえる。また今回でいえば、主要なキャラクターたちの言動に思慮の浅さが散見され嘘くささが増している側面もある。理想化や短慮さが前景化されることでキャラクターの平板性が増すのである。これらは、作品を薄っべらくみせている要因の一つといえる。その一方で『竜とそばかすの姫』は、公開3日間の興行収入が8.9億円と好調な出だしである。国内での話題性や期待感についてみていくと『サマーウォーズ』以降の細田作品は、家族という普遍的テーマを中心に据え、スタジオジブリの作法に倣った有名俳優を中心とする声のキャスティングや有名な国際映画祭での入賞や受賞歴など、アニメファン以外にも受け入れられる一般性がみられる。また、人気がある理由の一つとして、詩情あふれる空間設計とダイナミックなアニメーションにより生じるスペクタクル性が挙げられるだろう。本作の特徴は、全体に流れる母性規範、キャラクターの短慮な言動、詩情的スペクタクル性が考えられる。この3点が入り混じることで『竜とそばかすの姫』は、問題点を隠し娯楽商品に換える薄いポエジーを持つといえる。

本作の主要な女性キャラクターたちは、母性の単純な理想化の傾向がみられる。母性規範の一つに女性によるケアという観点がある。ここからみれば母親の本質は子供を産み育て、夫や祖父母を含めた家族のケアを行うことである。つまり母性は、一切の家事労働を担う中心人物という、いわゆる家父長制的な良妻賢母を指す。物語の冒頭で鈴の母親は、鈴を生んで大切に育てていた様が、鈴による回想シーンからうかがえる。鈴が音楽に興味を持ったきっかけは、母親に与えられたスマートフォンの音楽アプリ(明らかにガレージバンド)で、母の協力のもと徐々に演奏や作曲ができるようになり、学びが喜びに変わっていく。鈴の親友である別役弘香は、知識と技術を併せ持つ現代的な女性として、鈴の精神的回復を全面的にサポートする。サイバー空間Uで歌姫Bellとして活動することに希望を見出した鈴に対して、弘香はパソコンやインターネットに関する知識や技術、資金力を駆使し、自ら楽しみながら鈴のケアを行う。弘香は鈴の友人であり部分的に彼女を育てる代替母ともいえる。また、本作のヒロインである内藤鈴は、家事労働に加え、前片足の先が欠けている飼い犬をかいがいしく世話している。母の思い出でもある欠けたマグカップを使用し続ける様と相まって、犬やカップに心が欠けた自己を投影しているともいえる。それ以上に、日常的に自分以外のケアを行う対象として犬の存在がある。最後に、女声合唱隊の大人5人がいる。彼女たちは、鈴のことを気にかけ暖かく見守っている。廃校の小学校で歌の練習をするときは、しばしば鈴がその場にいるのである。鈴は何をするでもなく、楽器の下に潜るなどしながらただそこにいる。このように彼女にとって、居心地の良い自分の居場所の一つが、合唱隊の練習場なのである。

その一方、主要な男性キャラクターはケア労働の中心であることと齟齬を起こし結果的にケアを免除されているといえる。鈴の父はシングルファーザーとして賃労働をしている。彼は鈴に対し、出かける際の挨拶をしたりご飯の要不要を聞いたりするなど声はかけるものの、決定的な対話を避け続けている。このような父親の態度は、暖かく黙って見守る態度として娘をケアしているというより、母親の死を巡り親子が向き合うことを徹底的に回避し続けるようにみえる。現に鈴と父親の身体距離はいつもわずかに遠い。物語のラスト近くで、東京から帰宅した鈴を駅で出迎える際にも、父親は鈴の向かい側のホームにいるのである。鈴の家同様にシングルファーザーである竜の父は、都心住まいで鳥の壁紙の子供部屋という裕福そうな暮らしぶりをしながら、二人の息子へ苛烈なDVを継続して行っている。竜の父は、子供たちへ最低限のケアはするが、常に威圧的で弟は既に通常の会話ができないほど精神的なダメージを受けているようにみえる。ここでは、本来ケアを担うべきではない父親がそのすべてを負うことで生じる歪みが暴力となって子供たちへ向けられている様がうかがえる。さらに、鈴にとって大切な幼馴染の久武忍は、鈴を6歳の時から見守りいつも気にかけている。彼は、他の男性キャラクターと異なり鈴に問題がないか言葉をかけ、手を握って引き留める。ただし彼もまた鈴の父親同様に、遠回しの態度だといえる。忍は優しい声をかけるものの踏み込んで対話することはない。彼は鈴の回復をただ待ち続けている。このように男性キャラクターはケアの中心人物になればストレスを抱えたり、ケアする相手としっかり対話ができなかったりする。その結果、ケアの中心でいることは男性本来の姿ではなく、もともと免除されているものであるかのようにみえる。

本作のキャラクターの特徴として、ケアを担う女性主体の理想化に関連して、キャラクターの短慮な言動が顕著だといえる。鈴の母は家族を越えたケア精神から、河川の氾濫によって中州に取り残され危険な目に会っている見ず知らずの児童を助ける。当時6歳の鈴が止めるのも聞かず、救命胴衣を一つだけ身に着けた母親は無謀にも川に飛び込む。このシーンを観ながら、救命胴衣の数はもっとあったのではないかと疑問が浮かんだ。家族のみならず他人までケアすることで死ぬ母親は、単純に滅私奉公的な真面目で素朴な母親像だといえる。ここでは、自分の6歳の娘の目の前で、このような危険を冒す母親が、現実に存在するのかについて大いに疑問を持った。それはともかくとして冒頭で想起される鈴の母親は、このように短慮な行動で命を落とすのである。さらにストーリーのメインである竜との交流において、父親からDVを受けている現実の見ず知らずの少年を助ける鈴の無謀さは、自身の母親の死と重なる。家族の枠を超えたケアの精神は褒められることでもあるが、竜の父親の暴力性を考慮すれば一人で何も持たず向かうことは、浅はかで周囲の親しい人に心配をかける思いやりに欠けた行為だといえる。実際、鈴が竜の父親と対峙した際に、鈴は顔を深く抉られ血が流れる。このような状況で実際的に考えれば、鈴はもっと大きなケガを負っておかしくない。10代の少女が睨み続けて、このようなタイプの男性が引き下がるとは考えづらい。鈴の行動は、フィクションとはいえシリアスな内容をみせるならば短慮と言わざるを得ない。さらに驚くべきは、鈴のことを気にかけている周囲の親しい人たち全員が、鈴を単独で東京へ送り出すことである。特に、鈴を高知県の最寄り電車駅へ車で送った女性合唱隊メンバーたちの態度である。彼女たちは鈴と共に、竜の父親の暴力映像を映像で観ているのである。このような状況で、なぜ未成年の鈴に付き添わないだろうか。女声合唱隊のメンバーは深い考えが無いからこそ、どう考えても危険な場所へ向かう鈴を、能天気に見送ることができたようにみえる。幼馴染の忍は鈴に対して、現実の自分の姿のままU空間内で歌うことによってのみ、自分がBellだと竜に証明でき、その信頼を再び得られると進言する。ここで、現実におけるネット上のさらし行為による事件が多発して久しいことは、まったく踏まえられていないとわかる。U空間でBell=鈴のライブを鑑賞する全ての人々は、善意を持ち現実に悪用する可能性はないという楽観主義と短慮さが垣間見られる。

これに類似する世界設定の短慮さとしては、弘香のパソコン画面上に個人のWEBカメラ映像が複数映り、通話が可能なシステムも該当するだろう。現実の竜の部屋をSNSサービスでリアルタイムな映像中継として流せることは、父親が自宅のセキュリティ設定をしていない証拠といえる。父親がオンラインについて情報弱者であり設定サービスを受けることすら思いつかないタイプの人間ということなのだろうか。もしくは、利用者のプライバシーや運営企業のコンプライアンスの機能が極端に弱い社会という設定なのだろうか。この辺りの世界設定に対しては、鑑賞時にかなり疑問であった。さらにいえばこの作品は、DV問題に対する救助活動を行う市民ボランティア団体が不在の世界だということである。現実には行政の300団体程度とは別に、約100のDVなどに関する市民ボランティア団体が日本に存在している。そうした現実を踏まえるならば、本作の世界にも同様の団体が存在しオンライン上で救護すべき被害者がいないか対応する活動が可能なはずである。少なくとも同国内とはいえ、それなりに遠方に住む未成年が特に何も準備せず被害者を訪問するというケースは極端にみえる。映画はあくまでフィクションであり、現実を参照していても異なるお約束の遊びの世界だということは当然である。しかし、現実に重なる設定や要素がある場合には、短慮な展開ばかりではなく、設定や物語へそれなりの配慮が必要だともいえる。

このような短慮を自然化するために、観客の情動を喚起する装置として、詩情的スペクタクルが視聴覚イメージ上に散見される。オンライン上にプログラムされたUの空間設計は、SFとファンタジーの混成といえる。空中にみられる宗教絵画の後光的な放射線とモダン的構築物の組み合わせは、地面から解放された自由な場として浮遊感と華々しい印象を与えている。竜の城が隠されている周縁的な場所は、ダークカラーのブロックにより構成されている。城までたどり着く過程で竜の部下であるAIキャラクターたちがみせる幻影は、密林のような誇張された風景や、晴れ晴れしい暖色系カラーリングのデザイン化された雲の光景である。さらに竜の城は、寒色系の有機的な形状でおとぎ話の世界観を参照しながら、屋内の薔薇が咲き誇る廊下のホールや額縁のある竜の暗い私室、大きならせん階段や屋上などで、他の空間とは一線を画している。CGIで構築されたこれらの景色は、仮想カメラによりフレーム内の角度が自在に変更できる。そのため、キャラクターの動きを自由自在にみせられるのである。このような映像自体はそれほど珍しい分けではないものの、Bellの歌唱シーンや戦闘シーンのスペクタクル性を支える効果を生んでいる。

Bellによる歌唱シーンは、視聴覚を通じたスペクタクル性により観客の情動を揺さぶるといえる。鈴のアバター=AsであるBellの声は、その質が少しスモーキーな幅広い高音で印象的である。楽曲のメロディは、今日的なポップスで歌詞は孤独や愛を歌う比較的親しみやすい内容だといえる。それらを支える音圧は、やはり映画館の音響設備だろう。耳だけではなく、全身に全方位から浴びる大音量は自宅で再現することが難しい。映像のロングショットが多いことを含め、映画館での公開を考慮して制作された映像作品はやはり設備の整った場所で観る意義があるといえる。このような聴覚イメージに支えられているBellの映像は、大きな目とデザイン化されたそばかす、長い手足となびくロングヘア―という姿である。彼女は中空に浮かんで衣装の裾を揺らしながら歌ったり、同時に花びらが無数に散ったりする。特に目を引くシーンは、空飛ぶクジラに乗るBell=鈴である。これらのショットは異なるタイミングで3回ほど登場する。細田監督のクジラといえば『バケモノの子』のラスト近くのシーンが幻想的でインパクトのある情景を描いていた。今回は、サウンドシステムを積んだクジラであり、Bellを印象付ける動的で迫力のある支持体のような役割を担っている。クジラに乗って歌うBellの周囲に、たくさんの花が舞い散る崇高な美しさは、観客の視聴覚的な快楽や没入感を誘うといえる。この歌唱シーンのスペクタクル性は、観客の情動を刺激し、実際に泣いたり衝撃を受けたりする観客がいたのである。知識経験としての物語への感動以上に、このような視覚と聴覚への莫大な刺激は、反射的に鑑賞者の感覚を揺さぶる。

Bellの歌唱シーン同様、戦闘シーンにおいても空間の使い方やキャラクターのアクションが相まってスペクタクルな視聴覚体験を生んでいる。Uの無重力的な空間を利用してアクションシーンでは特に、スクリーン内を縦横無尽に飛び回るキャラクターたちをロングショットで捉えている。Bellと竜が出会うシーンは、Bellの大規模コンサート会場である。Bellのライブ中に、自警集団ジャスティスのメンバーに追われた竜は、無理やり球状の空間をこじ開けて入ってくる。壁面に張り付くような位置にいる他のAsたちに構わず、竜はジャスティスたちと激しく戦う。彼らの戦う様は、ロングショットで球形の場内でのスピード感ある動きをカーブする光の線や衝突で表している。また、竜と仲良くなったBellが一人の時に彼女を捉えようとするジャスティスたちから、突如現れた竜が彼女を守るシーンも、ダイナミックなスペクタクル性に溢れている。この接近戦のシーンは、U空間の地面が存在しない特徴を生かして、落下や上昇を効果的に演出しているのである。仮想カメラの角度も自在のため、フレーム内における自由な重力方向が示され、劇場空間の音響効果の豊かさと共にスペクタクル性を示し、遊園地のアトラクション的な快楽を観客に体験させる。

これらと異なるスペクタクルなシーンとして、学内恋愛攻防戦のシーンがおもしろい効果を生んでいる。事の起こりは鈴を心配した忍が高校の廊下で鈴の手を握って引き留めたことだ。鈴と忍の恋愛関係を疑った忍に憧れる少なくない女子達と、弘香のサポートを受けた鈴とのSNS攻防戦が始まる。オセロの陣取り合戦のような布陣にSNSという形式でテンポ良く、弘香と鈴による女子達の懐柔が進んでいく。鈴と忍は恋愛関係0と彼女たちに理解してもらうことで和解を迎える。現代的なゲーム性のある表現で、『サマーウォーズ』でみられたような、細田監督ならではのサイバー空間上のゲーム展開のおもしろさがここでは垣間見られた。

以上でみてきたように本作は、キャラクターを中心にみられる母性規範と短慮さによる薄っぺらさが、ポエジーがあふれるダイナミックな情景の生むスペクタクル性と交互に混成することで、問題的側面を隠して現代的娯楽の文化商品として人気を博しているのである。