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『ミッドサマー』のネタバレ感想

『ミッドサマー』、3月頭に通常版を観て、先週にディレクターズカット版を鑑賞しました。2回観たので、感想を書きました~。

サブカルチャーとしてのホルガ
『ミッドサマー』 アリ・アスター 2020年


映画『ミッドサマー』は、土着宗教ホラーの形式を借りた失恋映画だといわれている。本作はヨーロッパの原始宗教・ペイガニズムや宗教論などが、監督の構想のベースになっている。その上で、監督自身の失恋体験を軸にして作られている。映像のヴィジュアリティでいえば、グルジア共和国出身のセルゲイ・パラジャーノフ監督作品の宗教的で演劇的なスタイルや、ペイガニズムがベースにあるイギリス映画『ウィッカーマン』など、さまざまな映像作品から着想を得ている。映画内では、グロテスクで残酷な描写と美しい風景や衣装、のどかな日常生活、フォークソングの原型のような宗教歌や儀式などのシーンを通じて、宗教的共同体ホルガの特殊性を浮き彫りにしている。

自然宗教的な共同体ホルガは、アメリカ人大学院生たちにとってサブカルチャーとして機能する。サブカルチャーとは、同時代のより大きな共同体である社会を、小さな共同体の視点から逆照射するものである。それにより、社会の課題点が浮き彫りにされるのである。『ミッドサマー』では、大学院生たちが所属するアメリカ社会の問題点を、小さな共同体であるホルガが写し鏡のように反射している。それは、現代社会における繋がりを分断された個人の孤立状態という問題の明示である。主人公たちは一見、仲間や恋人同士のようにみえるが、表面的な付き合いしかしていない。もともと連帯が壊れた、しらじらしい関係性が冒頭から当たり前に描かれている。本作では、ホルガという強固な連帯を持つ共同体をみせることにより、現代社会の人々の繋がりが失われているという課題を浮上させるのである。

現代社会の壊れた連帯という課題を示す4つの要素として、主要キャラクターの孤立、壊れた人間関係、サブカルチャーとしてのホルガ体験、ホルガの世界観を支える映像の美的側面が挙げられる。まず一つ目の、主要なキャラクターが孤立している点についてみていく。文化人類学専攻の大学院生クリスチャンは、周囲に流されるタイプで自分の考えがない。平気で人のアイデアを取って、罪悪感も持たないタイプである。ヒロインのダニーとは、すでに恋愛感情はなく情だけがある共依存の関係である。最終的には、周囲に翻弄され殺される。ダニーは家族関係の影響もあって、うつ病やパニック障害がある。そして、恋人のクリスチャンに精神的に依存している。最終的に彼女は、クリスチャンからホルガへと依存先を変えるのである。ジョシュは、真面目で自己中心的である。自分の研究について妥協はしない。自己の探求心を正当化し、相手のルールを考えない振る舞いゆえに殺される。マークは、能天気で何も考えていないようにみえる。思ったことをそのままはっきり発言し、小学生男子のような悪ノリが大人になっても通用すると思っている。その不遜な言動の結果、殺される。ペレは一見、優しい人である。しかし、コミューンに人生をささげているため、大学院の仲間とは根底では断絶している。だからこそ、生贄として友人をささげることに何の迷いもないのである。皆は仲間同士のようにみえて、実際は断絶し孤立している。その様が、映画では前景化されている。

続いて二つ目の、主要なキャラクター同士はお互いの関係性が壊れている点についてみていく。まず冒頭から不在の相手について悪口を言う描写がなされる。しばしばパニックを起こすダニーは、恋人クリスチャンやその仲間から煙たがられている。妹のことで不安になったダニーがクリスチャンへ電話すると、その横でクリスチャンの友人たちは彼女の悪口を言うか、それを否定しない。ダニーが彼らの部屋を訪れた際にも、友人たちは実はダニーを煙たがっているのに、良い顔して接している。このような、日常的によくある人間関係に向き合わないでごまかす態度を丁寧にみせている。ホルガにきてからの彼らも、同様である。ダニーとクリスチャンは一緒に過ごさなくなって、メイクイーンのダンス試合のシーンでは、もはや見知らぬ他人のようだ。クリスチャンは、ジョシュの研究をまねることを臆面なく宣言する。二人はなんとか相手を出し抜こうと、それぞれ村の儀式やルールに関する情報を集めていく。マークの不遜な態度を仲間は誰も本気で注意しないし、放置している。ペレは皆をなだめはするが、何か問題解決をしようと動くことはなく、彼らが村から出ることも許さない。このように、もともと孤立している主要キャラクターたちは、ホルガにおいて身体的にも分断されていく。

三つ目として、現代において主流と見なせるアメリカ社会から来た若者たちが、小さな共同体ホルガをサブカルチャーとして体験することを通じて、自分の孤立した立場を再体験することが示される。彼らは最初、ホルガの歴史的文脈は知らない。その風習を理解することもない。自分の所属する共同体のルールから出ることはなく、ホルガの習慣は異様なものだと捉える。主要キャラクターは、ホルガに対してそれぞれ異なる反応をする。ジョシュは興味深い研究対象として、マークは理解できないおもしろい風習として、クリスチャンは奇妙だが論文の良いネタとして、ダニーは恐怖の対象としてホルガを捉える。ジョシュとマーク、クリスチャンはあらかじめ生贄としてペレに選ばれた、孤立し自己中心的な人物である。ダニーはホルガの新しいメンバーとして試され、メイクイーンになることでテストに合格する。彼らはホルガのルールのもとで過ごすうち、度重なるショックやドラッグ、共同体メンバーの「普通」な態度により感覚が鈍磨し、通常の思考や行動ができなくなっていく。また正常性バイアスの働きにより、自分が殺されるとはつゆとも思わず、結果、仲間から離され殺されていくのである。このような分断は現代社会の孤立した個人の様を表しているといえる。

最後に、映像的側面としてさまざまな要素をブリコラージュしたヴィジュアリティが、ホルガの世界観を支えている。文化人類学でいうブリコラージュとは、身近なものを採取し再構成して道具を作りだすことを指す。カルチュラルスタディーズでは、このブリコラージュをサブカルチャーの重要な特徴だとしている。『ミッドサマー』は、例えばボーカロイドの楽曲のように、ジャンルや文化の文脈的な側面よりも、多様なスタイルを集めて再構成しているような映像である。まず、土着宗教のお祭りや儀式など、演劇的な要素を参照していることが挙げられる。そしてパラジャーノフ、『ウィッカーマン』、ヤコペッティなど、さまざまな映画を下敷きにしているといえる。また、実験映像やビデオアートのように、光のハレーションや別の映像イメージがレイヤーとして重なることで、心象風景と酩酊状態を観客に想起させるヴィジュアリティを生んでいる。自然の風景、建物や衣装、壁画や絵巻物などによる美学的側面では、美しくのどかで自立したホルガの村を独特のイメージとして形づくっている。このようにさまざまな要素が採取され、再構成されて本作の映像が生み出されている。これらの美学的な側面は、本作の観客が映画内世界へ没入するための装置として機能している。

4つの要素から『ミッドサマー』がどのように主要キャラクターの孤立を表しているかみてきた。本作は、ホルガというサブカルチャーの観点から、アメリカ人大学院生が属する現代社会の、分断され孤立した個人という問題点を逆照射しているといえる。アリ・アスターは過去の短編2作品でも、人間関係のディスコミュニケーションを描いてきた。『The Strange Thing About the Johnsons』(2011年)は、黒人一家の息子が名士の父親を性的虐待し続け、事故による父の死亡後は母と息子が殺しあう。『Munchausen』(2013年)は、大学進学で家を出る一人息子を、母親が過剰な愛情ゆえに毒殺してしまうのである。ネオリベラリズムの現代社会において、消費と再生産の輪が歪み機能しなくなっている。その中で、地縁や血縁のみならず、さまざまな局面で人々の連帯自体が分断されている。このような問題点を、アリ・アスターの映画はみせているといえる。

参考文献
・『ミッドサマー』公式パンフレット(2020年)
・いりこしうむ 、「向こうで映画見るけどあなたもどう?」元カルト信者の私が『ミッドサマー』に覚えた既視感、文春オンライン、2020/03/14
https://bunshun.jp/articles/-/36616
(最終確認:2020年3月23日)