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『性の劇薬』のネタバレ感想

昨年の春、『BL進化論』の溝口彰子先生のサロントークに参加したとき、この『性の劇薬』を知りました。すでに映画化も決定しており、この作品は何だろう?と、帰宅後さっそくマンガを読みました。そして、今年になって劇場公開が始まり、つい先日、友人と観賞した次第です~。

映画館はほぼ満席で、女性二人組が多かったです。昔、『秒速5センチメートル』や『時をかける少女』(アニメ版)を観にいったとき、複数のオタク男子2人組が仲良さそうに来場していた様を思い出し、今はその逆だと思いました。

運命の相手というファンタジー
BL映画『性の劇薬』城定秀夫 2020年


ここ数年、『おっさんずラブ』や『きのう何食べた』など、BLをテーマとしたドラマが広く人気を博している。これらは、女性や同性愛者のみならず、ストレート男性の視聴も促した点で象徴的な作品といえる。折しも今年、2020年は『囀る鳥ははばたかない』『ギヴン』『世界一初恋 プロポーズ編』『海辺のエトランゼ』『窮鼠はチーズの夢を見る』など、BL原作の映像化が豊作の年である。

そのような機運のなか、『性の劇薬』は王道の監禁ものBLとしてこの春公開された。監督は成人映画で経験を積み、ストーリーテーリングに定評のある城定秀夫だ。女性向け、しかも腐女子がターゲットとなるBLマンガ原作を、どのようにR18指定で仕上げたのかは、商業BL作品ファンの間でも話題となっている。

この作品は、ただ一人の運命の相手と結ばれたいという恋愛ファンタジーを描いている。現実では達成が難しい運命の相手という理想を物語内で叶えることは、現実の異性愛規範に疲れたBLファンの心を癒すのである。本作は、R18ならではの過激な表現として、誘拐と監禁、SM的性暴力という点に注目が行きやすい。そのような刺激的な表現は、「運命の相手」という純愛テーマと対比を成し、アトラクション的に引き立てる作用がある。俳優の外見的魅力やさまざまな設定もまた、テーマを美しく補強し作品世界に観客を没入させる重要な要素である。当然これらの要素は原作由来であるが、実写で違和感なく描くには、様々な配慮が必要だろう。

『性の劇薬』には、読者の妄想を補完するためのBLマンガ的表現が丁寧に織り込まれている。キャラクターの言動や世界設定、物語のラインなど、BL作品の読者ならば馴染みある独特の表現がある。これらは、興味のない層にとっては、ときに違和感を生むものである。映画としての質やある程度の見やすさを保ちながら、この条件を満たすことは、それらの意味と効能をよく理解していなければ難しいだろう。また、BL作品を実写化する際によくある生ぬるい性表現にならず、しかしゲイポルノほど生々しくならないための配慮は重要であろう。BL形式と映画としての自然さ、女性向けとして適切だが過激な性表現という相反する要素の達成は、BLマンガ実写化の完成度を左右するのである。

それでは最初に、「運命の相手」という純愛的主題とそれを補完するBL的要素について、キャラクターとストーリーの側面から具体的にみていこう。まずは、キャラクターに注目する。主要キャラとしては、細すぎない受けと細マッチョな攻めにふさわしい俳優が選ばれている。二人の身長はわずかの差であり、受けと攻めの体格があまり異ならない点は、昨今の流行りといえる。顔もイケメン過ぎず、整っているがどこにでもいるような風貌の男優たちである。  

これは、現在のBLマンガの作品傾向を考えると、相応の役者が選ばれているといえる。2010年以降の商業BLマンガは、それ以前の女性的な受けと男性的な攻めに加えて、対等な受けと攻めであったり、男性的な受けと女性的な攻めだったり、性役割が固定的でないカップルも増加し、性役割が一般的な異性愛規範とは異なる設定を描いてきた経緯がある。また、年を取っているか美人やイケメンでない、もしくは太っているなど、ルッキズムから外れた見た目のキャラクターが恋愛の中心に据えられる作品も増えている。

主要キャラクターのBL的な性描写としては、攻めが受けに、こっち(アナルセックス)の才能があったんじゃないか」と言う代表的なセリフがある。この「才能」もしくは「素質」という言葉は、90年代以降のBLマンガにしばしば使用される定型句だ。このセリフは、ノンケ男性である受けが攻めの性技ですぐに快感を覚えるというBLのお約束的な展開でしばしば使われてきた。

また、昨今のBLには定番といえる、受けが乳首を刺激され快感を覚えるシーンが本作ではしっかり演出されている。90年代以降のBLマンガで、徐々に描かれるようになっていった男性の乳首は、多くの一般マンガでは現在も消去された存在である。BLマンガでは、乳首が描かれると共に、その性的快感も重要な表現として一般化している。他には、現実では不可能であろう、アナルセックス未経験者のアナルをほとんど馴らさずに挿入するシーン、ラストの騎乗位でのご褒美セックスなども、BL的な表現パターンであるといえる。

次に、ストーリーが純愛テーマをどのように自然化しているのかについてみていこう。まず大筋として、出会って対立し、困難を経た末に和解がありハッピーエンドという流れがある。少女マンガが主要なベースの一つとなっているBLマンガは、基本的にハッピーエンドが主流であり、本作も典型的な流れに沿っているといえる。具体的な設定としては、監禁と調教という背徳的な要素がある。これには、肉体的快楽を通じて、生きる歓びを受けに実感させるという攻めの理由がある。また、家族を失った受けと恋人(原作では兄と両親)を失った攻めという組み合わせから、加害者である攻めが、実は恋人を失った被害者であり、両者とも愛する人を失い、人生を謳歌できなくなっている状態であることを示している。

ストーリーを補強し、キャラクター同士の因果関係を作る設定としては、攻めの自殺した元彼と瓜二つの受け(映画版のみ)、攻めが偶然にも受けを見かける3度の遭遇(受けの親の死・その両親の墓参り・受けの自殺直前)がある。このような因果関係はご都合主義である一方で、二人が「運命の相手」であることを観客に印象付ける。

また、原作にはない舞台設定として、前半の謎めいた病院の地下ボイラー室と、ラストの海辺の無人のコテージが挙げられる。日常におけるノンケ男性が、同性愛に目覚めてもおかしくないという演出を、このような非日常的な空間が支えている。

それでは本作は映画として、どのような特徴が考えられるだろうか。ここでは、映画的モチーフと女性に配慮したカメラワークについてみていく。まず初めに、映画的な反復モチーフが物語の理解を助ける。小道具としては、溺死した虫と薬の小瓶がある。虫のショットは、生きる意味を失い自失状態である受けと攻めを比喩的に表している。この映像は、映画の冒頭と中盤に挿入される。映画前半は受けのエピソードなので、冒頭の虫は受けを表わしている。中盤以降は攻めのエピソードが語られるため、攻めを示しているといえる。溺死した虫の水桶のショットは、ラストで二人が海に入る救済的なシーンに繋がっている。

薬の小瓶は、生と死が象徴的に付されている。小瓶は中盤頃に、攻めが受けに与える致死のプラセーボが入った容器として、まず登場する。受けはけっきょく飲まずに瓶を割る。次に、後半で攻めの元恋人が自殺する際に使用した劇薬が、同じ見た目の瓶に入って登場する。こちらは、元恋人の自死のシーンと、ラストの攻めが入水自殺しようとするシーンに現れる。受けが攻めの自殺を押しとどめたあと、空になった瓶は波打ち際に転がっている。捨てられた瓶は、二人が希死念慮を放棄したことを表わす。

また、ハンプティダンプティの曲とテーマ曲もモチーフとして機能している。攻めが時おり口笛で吹くマザーグースのハンプティダンプティは、攻めの元恋人が口ずさんでいたメロディだと物語の後半でわかる。前半では受けの恐怖を象徴する一方で、後半では攻めの哀しみを象徴するというように、意味が変化している。そして、中盤以降に数回BGMとして流れるテーマ曲は、最終的にエンドロールでも流れており、中盤以降で二人の気持ちが変化し和解していく微妙な心の動きを表わしているといえる。

次に、BLをR18で実写化する際のBLファン腐女子への配慮として、性器のモザイクを減らす努力がある。通常、BLマンガの男性器は、りんかく線を隠すための黒塗りやホタル、白抜きなどによる消去が成されている。本作では、モザイクなどで後から消すのではなく、ほとんど映らないようなカメラワークを採用している。その代り、性行為中の二人の全身や、下からあおるショットなどで、性表現の激しさを演出しつつも、性器が映らないぎりぎりのフレームを切り取っている。そのせいか、モザイクの滑稽さで興ざめしないと共に、上品な仕上がりになっているといえる。

以上のように、本論では『性の劇薬』における、純愛テーマとBL的表現をみてきた。本作は、非現実的な空間や過激な設定で刺激を与えつつ、理想的な純愛ファンタジーとして観客の心を浄化する。それらをうまく働かせるのは、BLジャンル固有の表現と実写化に伴う生々しさの間の調整である。その結果、この作品は、ただ一人の運命の相手と結ばれたいという恋愛ファンタジーを観客に真摯に伝えるのである。