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『エスター』のネタバレ感想

前日譚を製作中と話題の『エスター』を、観せてもらいました。コロナ自粛中なので、文章の練習として感想を書きました~。。

この社会では、永遠に満たされない少女 
『エスター』ジャウマ・コレット=セラ(123分/2009年) サイコスリラー映画


主人公エスターは、身体が成長しないせいで心も歪んでしまった精神病者である。脳下垂体が機能しない病気のせいで、エスターは成長できない。(1) 彼女の体は、9歳で時が止まっている。その子どものままの体に反して、毎日の経験で成長していく心のバランスは、大きく崩れている。大人になることができずに歪んだ心は、大人とも子どもともいえない。そのストレスに耐えられなくなったとき、エスターはヒステリー的な悲鳴を上げ身もだえする。あるいは、自分を否定する者たちを容赦なく害するのである。

エスターは、心と体の不一致により、社会的な自己実現が達成できない人の象徴である。自己実現に悩むキャラクターを心身の不和で表現する方法は、よくある手法である。大人になっていく身体の成長に伴わない思春期的な精神のテーマは、現代ではモラトリアムとして一般化し、さまざまなジャンルで作品化されてきた。

本作はエスターという特異点から、社会における個人の在り方の問題を可視化している。サイコスリラーのジャンルで、子どもの外見に大人の内面の主人公というファンタジー設定を用いることにより、エスターの社会的な不和は際立ったものになっている。『ブリキの太鼓』における、自分の身体的成長をコントロールできる主人公オスカルのように、特殊性を持つ主人公から、社会の中でどのように個人が自己実現できるのかという課題やその社会の問題点を照射している。

フランソワ・リオタールが書いたように共同想像としての大きな物語が崩れ、ライフスタイルとして個別化した物語を一人ひとりが生きる現代は、理想的モデルとしての大人像は失われている。なるべき姿のイメージを失った人々は、理想の自己像を探して悩み続ける。悩みながら自分なりに変化し、自己実現しようともがくのである。

今日の社会では、共通理解としての大人像が壊れているにもかかわらず、伝統的な異性愛規範は中途半端に存続している問題がある。そこには、男女の恋愛や制度的結婚への無批判な肯定がある。そして女性に対して求められる、規範的な美しい外見や出産・育児への、社会や家族からの重圧が隠されている。どのようになることが、社会的に認められると共に自己充足できる姿に繋がるのかということが、結論のない課題として浮上し続けている。

この社会でエスターは、誰ともパートナーになることができない。自分と精神年齢が対等なはずの中年男性とは外見が釣り合わない。また、子どもに見える外見のせいで、社会的な成長経験を順当に得られなかったため、知識はあっても精神的に成熟しているとはいえない。さらに、外見が対等な子どもとは、経験値が異なるため互いに恋愛対象とはならず相互理解も生まれない。子どもにとっても、自分とエスターは価値観が離れているので魅力的に映らないのである。

エスターの時代がかったお嬢様のような服装は、大人でも子どもでもない自己イメージを表わし、そのせいで周囲との不和を生む。服装へのこだわりには、彼女らしさが満ちている。一方で、その服装は他人から理解されない。養子先のコールマン家で、彼女が小学校に初登校する日の朝、そのかしこまったドレス姿は義母と子どもたちの失笑を買う。その姿は学内でも物議をかもし、他の子どもたちとの衝突を生む。自分らしさを表明した結果、彼女は誰からも受け入れてもらえないのである。物語の後半でエスターは、自分なりのセクシーな装いで義父のジョンを誘惑する。ケイトのドレスを加工して身につけ、化粧をした大人びた姿で現れるが、ジョンからは拒否される。自分らしい服装ではなく、ステレオタイプな成人女性のイメージとしてのセクシーなドレスと化粧という装いをしてなお、彼女は認めてもらえない。

『エスター』の主人公は決して、この社会の中で自分らしく生きることはできない。子どもの姿で中年の心の彼女を、世間は受け入れない。彼女の自分らしい装いは、共同体からは拒否されるのである。それに対する報復としてエスターが行う殺人や放火は、社会的規範を大きく外れている。エスターは、極端なキャラクターとして誇張された現代人の自己矛盾を表わしている。社会への迎合と自分らしさの表明は、安易に親和することはない。本作は、社会の中でもがく個人の満たされなさを、比喩的に表わしているといえる。

(1)脳下垂体の機能不全で成長できない病気は、架空設定らしいですよ