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『天気の子』の感想(ネタバレあり)です~

世界と個人-環境問題と恋愛ドラマのあいだ
『天気の子』新海誠監督/2019/114分



新海誠は、再会というテーマをループし続ける。男女2人が困難を共に乗り越えたあと、時間を置いて再会する。そこに向けていくつかのハードルを設けることで、観客の情動は高まる。メイン2人の再会が、最高に感動的になるよう物語が構成されている。以前の作品は、人違いやすれ違いで再会は機能不全に陥った。近年はそれが解消され、主人公たちはエンディングで再会することが運命づけられている。『天気の子』では、雨の止まない東京で偶然に、ヒロインの陽菜が天候をコントロールできる能力を、天空の何者かから付与される。彼女の晴れ間を呼ぶ力は、明確に世界に影響を及ぼす。本作は、人間中心主義(アントロポセントリック)の視点から環境問題を考えつつも、ハッピーエンドな恋愛ドラマとの間でそのメディエーションに苦闘する物語である。社会的テーマと個人的テーマは商業主義のもと、どのように受容されるのだろうか。


ヒロインのキャラクター設定は、旧来のエコフェミニズム的な比喩がみられる。多くの新海作品では、女性が自然や田舎に比喩されたり、神秘的な自然現象の代替物として巫女のような位置に設定されたりする。対して男性は、都市や一般的な現代人として配置されている。さらに、近年の主人公男性は、ヒロインを助ける王子様的な役割を担っている。本作のヒロイン・陽菜は、能動的で自立した側面を強調する一方で、実際は保護者不在の未成年女性として弱者側に置かれている。限定的な天候コントロールの能力を与えられた代わりに、自身の生命が代償となる。エコフェミニズムでは、女性・自然が男性・文明から搾取される弱者的な客体として対置され、目に見えない不均衡を可視化する。実際は、人間である女性も自然を搾取する強者側であるため、理論としての矛盾が指摘されており、この比喩は旧来的視点といえる。


作中では、近年の地球温暖化現象がテーマの一つとなっている。都市部でのゲリラ豪雨が、現実よりも常態化した世界観である。大学生になった主人公・帆高は、終盤で農学部に入学することが、東京の新居で無造作に置かれるパンフレットからわかる。そこには、アントロポセン(人新世)と書かれている。アントロポセン=人新世とは、地質学の概念で、人と自然が空間的に分けられていた前世紀の完新世に対し、全ての自然環境に人が介在している今日の状態を指す。これには、近代化・資本主義以降に加速した、グローバリゼーションが大きく関わっている。女性や動植物だけではなく地球上の全てが商品化され、それらが世界中を流通する先進資本主義の現状がある。環境は人間中心主義的に作り変えられる側面を持ち、相互に影響し合い、もはや自然と人は分けられない。


陽菜がギフトとして受け取った晴れ女の力は、帆高のアイデアにより商品化される。社会に対して無力な少女は能力を販売することで、ネオリベラリズムの力学通り社会の中で必要とされる自立した存在になる。インターネットのサイトを通じて起業する様は、ICT系の若手起業家やユーチューバーを想起させる。自己責任のもと24時間仕事体制となり疲弊していく新興起業家のように、天候コントロールをするたびにヒロインの体は蝕まれ透明化し、人柱としてその生命を削られる。祈ることをやめた陽菜のせいで、未曾有の豪雨が東京を襲う。陽菜は、帆高にこの雨が止んでほしいかと聞く。寝入り端の彼は、うんと答える。翌日、彼女は消滅し街は晴天となる。帆高は、自分の応答により、陽菜は人柱になったと考える。


恋愛ドラマとして観客の情動を高めるためのナラティブにより、主人公は最後の困難に立ち向かう。帆高は、陽菜を天空から解放するために、彼女がギフトを手にした廃ビル屋上の鳥居へ向かう。警察や水没した街路など様々な困難を乗り越えて、彼女の奪回を祈りながら鳥居をくぐる。このシークエンスは、観客の情動を最高潮へ持っていく。社会のなかで弱い立場である子供たち。少女1人に世界の命運がかかる不条理や、彼女を救おうとする少年のせい一杯の努力、彼にほだされる大人の姿などが観客の涙を誘う。実際、ほぼ満席の公開二日目の映画館には、数多くすすり泣きが響いていた。


本作は、環境問題のテーマと恋愛ドラマの両義的な読みを可能とする。帆高の懸命な働きにより、陽菜は現世へと奪回される。雨は再び降り出し、それからもう止むことはなかった。共同体の安定よりも個人の幸福を追求した結果、世界は不安定が常態化する。しかし、それで良いのだとモノローグで帆高はつぶやく。たった1人の人間も幸せにできず、理不尽な犠牲を強いる社会は肯定しないことを示唆する。一方で、ネオリベ的な個人主義の結果、自然環境が不安定化しても自分には関係がなく、それよりも自分と身近な人間の幸せが大切という側面もみせる。


『天気の子』をどのように理解するかは、観客の知識や考え方に大きく左右される。本作は人間中心主義がまず前提にあり、その上で環境問題をファンタジーの力で乗り越える姿をみせている。想像力では環境問題を乗り越えられない主人公が、大学で現実に環境問題と向き合う姿勢を終盤のパンフレットにより示唆する。観客は、人新世の概念や人文学での議論を知らないと、この点を見過ごす可能性が高い。一方で、愛しい相手との数年ぶりの再会が大団円となり、環境問題よりもヘテロセクシャル規範的な恋愛へと物語は回収される。環境問題への内省を促すようにみえて、結果的にメロドラマへ横滑りしハッピーエンドを迎える。


この作品には、現実の環境問題に触れる天候描写と、再会をゴールとした恋愛物語が組み込まれていると考える。商業的理由や制作者の興味の混交物である多くの商業映画同様の本作は、それぞれの観客のうちにどのような物語を醸成するのだろうか。