先日行われた、長野櫻子さんの個展『rope jumping ~back』でのトークをレポートします~。私も聞き手として登壇しました。
日時 2019年3月2日(土)18:30-20:30
会場 N-Mark5G(名古屋市中川区)
司会 伊藤仁美
作家 長野櫻子
聞き手 林緑子
はじめにフィルムからテレビ、そして現在のデジタル化という映像技術の更新や、インターネット敷設による情報流通などの環境変化のなか、映像系の作家はそのときどきで可能な表現を行ってきた。現在、動画は実写とアニメーションの境界がデジタル技術により曖昧になったとしばしばいわれている。こうしたことを引いて、映像制作や受容の方法が変化し、さまざまな試行錯誤が各領域で試みられている。
また、作家に通底するコンセプトがある反面、周辺環境から常に影響を受けテーマや制作が変化する部分もある。制作者はいつも、社会的状況やメディア環境と交渉関係にある。
長野さんは広島市立大学を経て現在、IAMAS(1) 一回生として学んでいる。制作する上で重視していることのひとつは、身体性である。もうひとつは、制作者と観賞者の作品を通じた双方向的な創発性だ。そうしたことから、作家の作業の痕跡や時間、可変・可動性、必然性と偶発性、静物の生命観、ものごとのプロセスなどを大切にしている。
デザインに出自を持つ彼女は、もともとコンテンツとして視聴されるアニメーション作品を制作してきた。展示を考えたとき、単なる映像作品ではなくインスタレーションとして成立できるものを目指し、現在に至る。
アニメーションについて長野さんは定義として「アニメーションは、連続するコマ、もしくはそれぞれのコマの上のイメージのあいだの差異を操作する芸術である」(2)を基点に、制作を行っている。このコマ間という概念を、スクリーン間に置き換えて制作している。それがインスタレーション作品のはじまりでもある。
ロトスコ―ピングは、実写のコマを静止画として1枚ずつ書き出したものをトレースし、アニメーションを制作する技法だ。インスタレーション作品において、彼女は一貫してこの技法を用いている。それは、実写の抽象化を行う作家の意図や身体感覚、経験的時間を含んだ映像にするためでもある。また、平面的なアニメーション映像と、立体的な音は両方とも調整され、異なる度合いで抽象化されている。
『rope jumping ~back~』について本作は作家のコンセプトを行き渡らせた作品として、個人制作された。音楽やロトスコ―ピングの元映像撮影においては、友人らの手を借りている。自身がコントロールできる制作方法として、透過スクリーンにプロジェクター投影する旧来の技術を使用した。
シリーズ前作に当たる『rope jumping』は当初、それぞれ自立したふたつのスクリーンに、正面を向いた人物が縄を回している姿のロトスコーピング映像を投影した。投影した映像は同一のもので、透過スクリーンのため、その両面から同じ映像を観ることができる。多くの来場者は何の指示も受けずに、ふたつのスクリーンの間で、存在しない縄を飛ぶためにジャンプした。このときは、特殊な装置がなくても体験させるしかけになっている点が評価された。ただし、架空の縄を飛ぶエンターテインメントな体験だけで終わってしまうと感じたそうだ。
その後、IAMASの担当教員から居心地の悪い空間を作ってみたらとアドバイスがあった。それをひいて、背面の裏側には顔があるという人間の思い込みを覆す作りを考えた。そして次作の『one side or between』では、作品観賞体験を通じて、エンターテイメントのもう一歩先にあるスクリーンと自己の関係性について、観る人に考えてもらえるしかけにするため、人物の背面のみのアニメーションを作った。このときは、ひとつの透過スクリーンに背面のみの女性、もうひとつに同様の男性のロトスコーピング映像を投影した。スクリーンのどちら側から観ても、当然、ロトスコ―ピングされた人物の顔は見えない。結果、観賞者の立つ位置によってふたりの関係性が一方への憧憬や双方の拒絶など、多様な読みができるしかけとなった。そして今回は、ひとつの透過スクリーンで、かつ背面を向いた人物の映像となった。
本シリーズでは、観賞者に身体性を感じてもらうために、いくつかの工夫をしている。まずは、ロトスコ―ピングされた人物が等身大サイズに投影されていることだ。次になわとびしている音である。縄を回す音と、飛ぶ着地音が含まれており、ロトスコーピングの元映像を撮った際の同録のため、映像と音声は同期している。この音により空間を意識させ、その音像から、アニメーションされた人物の身体性と、却って観る者のそれを意識させる。
作家の意図を反映するには、自ら設営することも重要だ。インスタレーションは展示会場により条件が変わる。また、その場で体験してもらうため、観賞者は来場の必要性がある。
本作において、背面しか映っていない点がシリーズ前作『rope jump』と異なった。作品と観賞者の間は、一見閉じられている。一方で、人物の顔が見えない点が観る者の興味を惹く。その奇妙さゆえ、作品と観賞者という関係性を、改めて意識させられる作品との感想もあった。
『わたしはここにいるだからそのことばがかきつづられるなぜならあなたがみているからだ』について本作は、IAMASにてプロジェクトの一環として共同制作された。技術としては、アニメーションとプログラミングを併せている。本作も、自分で書いた文字を使用し、これまで同様にロトスコ―ピングを用いた。その音も実際に書いたときのものだ。プログラムは別の学生が行った。
手描きアニメーションという制作時間を要する技法と、定型のプログラム・コードで制作時間をさほど要さない技術を組み合わせた。また、偶然性を伴う手描きアニメーションと、必然性を伴う計算式という異なる形式間の違いもある。
視聴時には、プログラム言語の動作により、常にアニメーションが生成変化される。また、もともとインターネット上で観賞する形態だ。このような作品は、発案者であるIAMAS教員により、ジェネラティブ・ストリーミングと呼ばれ、常に一回性の体験型作品となっている。そのシステム上、作家のコントロールが可能な部分とそうではないところがある。アニメーションはプログラム制御のため、表示される文字はランダムなものとなり作家が指定できない。また観賞者の視聴スタイルも同様である。結果的に、偶然性と必然性が同居する作品となった。
サーバーに本作のデータが保管され、観賞者が何らかのメディア・プラットフォームを利用してインターネット回線へ接続できる限り、場所と時間を問わない観賞ができる。『rope jumping ~back』とは異なる、制作者の手を離れ体験されるという主旨の作品となった。
今回の展示では、ディスプレイへ直接パソコンからデータ出力している。展示会場を壁で仕切って細い通路を作り、その奥の床面に設置された。
ざらっとした文字の質感や描く音は、観賞時に視触角性や共感覚性を呼び起こす。それにより観賞者の身体感覚にうったえるものになっている。本作における身体性は、作家のライフログ的な側面と、観賞者がその音像から感じる側面がある。制作者の作業時間が作品となり、観る者へ届く。その間にはプログラムやインターネット、視聴者のメディア環境による、不確定要素が混在する。
まとめ人間は周辺環境や他者を通じて自分の位置を測る。現代社会は変化が激しく、不安定でもある。世界の中で、自分の立ち位置を確定させることがますます難しくなっている。そのような状況において、身体は人にとって最初の場所でもあり、不可分なものである。だからこそ、身体というキーワードは、製作者や観賞者にとって重要になる。また、常に周りと影響関係にあり交渉しつづけるプロセスは、人の在り方そのものともいえる。
アニメーション技法を用いて、身体性と双方向的視聴体験を観る者に感じさせる作品を制作する長野さんは、今日的な制作の在り方を模索しているといえる。
(1)岐阜県立の情報科学芸術大学院大学。
(2)ジョルジュ・シフィアノス「アニメーションの定義:ノーマン・マクラレンからの手紙」『表象』2013、土居伸彰訳、表象文化論学会編、pp68-78
今後長野さんは、今後の活動として、4月後半に同会場にてグループ展参加予定です。
岸井戯曲を上演する@名古屋#1「本当に大事なことはあなたの目の前ではおこらない」
日時 2019年4月27日(土)・28日(日)19:00-21:00
会場 N-Mark5G(名古屋市中村区長戸井町4-38黄金4422.BLDG.-5F)
料金 前売 一般3000円 学生2500円/当日3500円
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