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映画『未来を花束にして』感想

曇りと雨のはっきりしないお天気が続きそうですね~。
年末に、『未来を花束にして』(サラ・ガヴロン/2017年/106分)の感想を書いたのでUPします~。

本作は、周縁化された人々の権利を巡る活動に注目した作品だ。具体的には、20世紀初頭のイギリスで、階級差と男性中心主義が当たり前の社会において、女性が参政権のために政治活動を行った史実を軸にしている。洗濯工場で生まれ育った労働階級の女性モードを中心に据え、妊娠や子育て、家族との関係性、過激派から穏健派まで、多様な身体状況や考え方の女性たちが、階級差を超え連携する様を描いた。

彼らは一枚岩ではなく、所属階級により活動方法は異なる。主人公の属する労働階級の女性たちは、商店への投石や都市インフラ機能の爆破など、暴力的手段を中心に抗議活動を行う。また投獄中のハンガーストライキやダービーでの殉死など、身体に寄った具体的な行動が主である。

一方で、扇動家のパンクハーストや、中産階級で夫が議員のホートン夫人は、演説や労働階級女性への活動の指示など、知的活動を中心に描かれている。このように、同じ女性のなかにも差があることを可視化している。主人公が初めて警察に逮捕されるシークエンスでは、ホートン夫人だけが釈放金を支払い開放される。ここには明確な階級差が表れている。

また、主に2種類のカメラワークによって、キャラクターたちの権力関係を視覚化している。一つ目はVoyeurismである。本作は、冒頭や前半に数か所、窃視症的なカメラワークが散見される。具体的には、洗濯工場で労働する女性たちを、物陰から盗み見るようなショットが多数挿入されている。これにより、視る者と視られる者という、一方向的な権力関係が映像化されている。労働階級の女性たちは基本的に視られる者であり、その視線の自主性ははく奪されている。同様に、権力者が上位から被権力者を見下ろす構図が数か所ある。工場長は工場内の上階から労働者を見下ろし命令を下す。また、女性参政権運動家のパンクハーストは、建物の窓辺という高い位置から、女性労働者を鼓舞する演説を行う。これらのショットが持つ意味は正反対であるにも関わらず、男対女だけではなく、中産階級対労働階級という構図がそこには明示されている。

このようなジェンダーと階級の不平等を解体する動きとして、本作では2つの手段に注目している。一つ目は、先にも挙げた階級を越えた女性同士の連携である。階級差は不平等として歴然と存在するものの、権力側女性からの思想的鼓舞により、被権力者は自らの置かれた状況を判断することが可能となる。仲間から渡されたパンクハースト婦人が女性の権利について記した本を、主人公が読むシーンがある。これにより、思想的な本が多様な女性たちの手から手へと受け渡され、自己の権利への気づきを与えたことが表される。また集会での演説による思想の受け渡しがある。彼らは身分こそ異なるものの、自らの権利を守るため既得権益におもねる社会と戦うという目的を共有していく。

二つ目は、近代的ニューメディアが公共圏に与える影響だ。本作には、活字(本や新聞)、写真、映画という情報の民主化を進めたメディアがいくつか登場する。それらが、市民社会に与える情報操作や気づきを表わすテクノロジーとして使用されている。

国家権力の犬である警察の指示により、見せしめとして主だった女性活動家の顔写真を新聞に掲載するなど、女性活動家たちの事件を報じるニュースは最初、彼らに見方しない。一方で、国王も参加するダービーで女性の権利を訴えるため、コースに自ら入り馬に跳ねられて殉死する女性、エミリー嬢の死は、参政権のために自らを捧げた象徴として、マスメディアを通じて報じられ、世論に大きく影響を与える。この、エミリー嬢の死亡シーンでは映画のカメラが回り続けている。ここで再度、Voyeurismが立ち現れる。

このように、マスメディアが世論に両義的に影響を与える様が象徴的に描かれている。最終的にはそうしたことも手伝って、女性参政権獲得の方向へと社会が動いていく。このように、史実である女性の権利に関する運動は、一進一退のものとして描かれる。勧善懲悪の架空の作品とは異なり、現実は複雑な要素や多様な構成員から成り、物事は簡単には変わらない点を残して映画は終結する。エンドロールに、各国の女性参政権開始年が記載されることで、物語は現在へと連結される。物語は閉じるが、少し開かれた状態で、現在のジェンダー差についても思考が及ぶ可能性を残した構成になっている。

このように映画に表象される内容やキャラクターの関係性、演出を見ていくと、民主化活動を扱った本作は、歴史的なエンターテインメント作品という側面と、観賞者へ多少の思想的影響や思考を促す側面を持っているといえよう。