本作は、脚本家・岡田磨里による初監督・劇場版アニメ作品である。彼女が、長年温めてきた物語の、満を持しての作品化だ。制作は『凪のあすから』のP.A.WORKS。繊細で丁寧なストーリーとキャラクター、美しい映像によって、ファンタジーの世界観を借りつつ、女性の生き様を描いている。それは、家族、恋愛、友情、人の誕生や死など、多くの現代人にとって身近で大切なテーマを扱った映画となった。
筆者は、109シネマズ名古屋にて、座席が観客で2/3程度埋まった状態のなか、本作を観賞した。観客は、男女カップルや女性の友人同士、一人で来ている男女など、大人が中心だった。そして、映画の後半になるに従い、しばしば男女ともに、観客たちのすすり泣きが聴こえてきた。
この作品は素直に視聴すると、相互扶助を経験しながら、自立していく女性の物語のようにもみえる。しかし筆者は、通奏低音のように本作に流れる別のテーマも感じた。本稿では、主に以下の二つの側面に注目し、『さよ朝』について考えたい。一つ目は「非血縁の連帯」、二つ目は「透明化された欲望」である。
最初に、一つ目の「非血縁の連帯」について考えよう。この作品では、血縁でない者同士の相互扶助が描かれる。まず15歳の少女マキアは、赤ん坊の男児エリアルを拾い育てる。そんな彼女を見守り、住処や仕事など居場所を与えるのは、シングルマザーのミドだ。物語の後半に、マキアはエリアルの妻ディタの出産を手伝う。このように、彼女たちは赤の他人の出産や育児に関わる。
主人公のマキアは、キリストを処女懐胎したマリアのように、性交無く、さらには自分のお腹を痛めずにエリアルという子を得る。そして、多くの新米ママのように、思い通りに行かず、わからないことだらけの初めての子育てに戸惑い悩む。時には疲れ泣き怒るが、自分からエリアルの手を離すことはしない。若いシングルマザー同様のマキアは、ミドたちに助けられながら、仕事と子育てを両立して生きていく。
また、コミュニケーションが取れる年齢になったエリアルは、マキアを励ます。相手の脇腹をくすぐって笑わせ、気持ちをなごませる行為は、マキアがエリアルに教えたものだ。それを今度は、幼いエリアルがマキアを元気づけるために行う。
そしてエリアルの妻ディタが出産する際に、マキアは、義理の娘ともいえる彼女の出産を、母親のようにかいがいしく手助ける。出産未経験の彼女は、この時もやはり戸惑いながら必死に努める。
このように、血縁ではない者同士がお互いを助け合う。赤の他人同士で疑似家族のように助け合うことや、一緒に暮らすスタイルは、近年見られる、住人同士のマッチングを行う異世代間シェアハウスのようでもある。これは、血縁や地縁が失われた現代社会における新しい地縁の姿とも言える。また70年代のウーマンリブにおける、女性コミュニティでの自宅出産活動も彷彿とさせる。
非血縁の疑似家族がモチーフとなっているアニメ作品は、例えばテレビシリーズの『交響詩篇エウレカセブン』を思い出す。チームのゲッコーステイトも疑似家族的だし、主人公のレントンやエウレカと、年下の子供たちは、終盤で疑似親子関係を形成する。しかし『さよ朝』では、もっと具体的で実際的な親子関係のエピソードがいくつも描かれている。それは鑑賞者のキャラクターへの共感や自己同一化をより喚起させる。
次に、二つ目の「透明化された欲望」について考えたい。この透明化された欲望とは何だろうか。筆者は、「ムスコン(息子コンプレックス)」「マザコン(マザーコンプレックス)」「若さと美への執着」の三つを挙げたい。これに沿ってストーリーとキャラクターの関係性を見ていこう。
マキアはイオフルの民という一族だ。彼らは10代半ばで老化が止まり、寿命が数百年という設定である。若く美しいまま、人間よりもかなり長い年月を生きる。そのような彼女が人間のエリアルを拾い育てた。彼が長じるに従い、二人の外見的年齢は重なり、いつしかエリアルがマキアを追い越す。その過程でマキアの呼称は「お母さん」から呼称なしの状態へと変化する。思春期男子の反抗期+母親への愛が、母親には見えない若く美しいマキアへの恋心に重なる。二人は、お互いを唯一無二の大切な存在と認めながらも別離する。
そして年老いたエリアルの最期、変わらぬ姿のマキアは再び彼の前に現れ、その死を看取る。それまで自己抑制的だったマキアが初めて、エリアルの死を悼んで叫ぶように大声で泣く。
エリアルのマキアへの恋とも愛ともつかぬ気持ちは、マザコンのそれと重なる。マキアのエリアルへの気持ちも同様に、息子コンプレックスの様相を呈している。それは、青年になったラング(ミドの息子)に求愛された際、エリアルのことだけ考えて生きてきたから、それ以外の誰かについて考えられない、といったセリフにも表れている。
疑似親子である二人は、血縁の親を知らない。そして疑似親子恋愛を通過しつつも、交わることはない。疑似インセストタブーは犯さず、プラトニックな無償の愛、与える愛を貫き通す。このことを通じ、息子を愛する母親/若い男性を愛する自分、母親を愛する息子/年上の若々しく美しい女性を愛する青年、美しく若々しい女性/自分という三つの欲望が浮かんでくる。先の二つを美化し、清潔感を保ち、社会的規範を守ったまま成立させるのが、非血縁の疑似的親子関係である。これを血縁関係で描くと、近親相姦となり社会規範を破ることになる。だから、それを犯さずに美しく哀しい物語として描くためには、血縁でないという設定は欠かせないだろう。二人が恋愛・夫婦的パートナーにはならないということも重要である。また長寿の一族というファンタジー設定も、三つめの若々しく美しくありたい欲望の美化だけではなく、人間とノンヒューマンの時間差による哀しさを生む装置として欠かせない。
三つの欲望をこのように美化することで、本作品は社会規範を破りかねないもの、逸脱させるだろうものを透明化し、観客に素直に受け入れさせる。このことにより、永遠の美や若さへの執着、ムスコン、マザコンという、社会規範を破るものや、人間社会から逸脱するだろう要素への欲望を肯定し、それらを観客の内側へ内面化し、あるいはすでに内面化されているものを強化する可能性がある。
筆者はこの作品を観て、好悪両方の感想を持った。
映像は美しく、文脈に関係なく情動を喚起するシーンも複数折り込まれていた。例えば、運河の縁で幼いエリアルがマキアを励ますため、どんとこい的に自分のお腹を手で叩くシーンの腕のしなる予備動作の丁寧な作画。または、大人になった兵士エリアルが敵兵と戦い血しぶきが飛ぶ瞬間と、ディタの出産の瞬間の交錯する絶妙な編集。そして、エリアルの死を悼んで青空の下一人きりで声を上げて泣くマキアのシーンなどだ。観賞者によって、他にも印象的な映像シーンがいくつもあるだろう。
こうした映像的な刺激は、ストーリーとは別にあるいは相乗効果として、作品への好感を押し上げる。先に挙げた「非血縁の連帯」と共に、ポジティブな観賞体験に一役買っている。
同時に、「欲望の美化」も強く感じ取ったため、同席した観客の嗚咽が増えれば増えるほど、不愉快な気持ちになった。
映像視聴は、観賞後にいろいろなことを考えさせられたり、感情を喚起させられる作品の方が、個人的嗜好とは別に、良作だと筆者は考えている。それを踏まえると、本作は良い作品だったのかもしれない。
最後に、『さよ朝』には岡田磨里が脚本家として関わった他の作品と共通する要素がいくつかあった。まずは、ファンタジー要素として、人間と異種族の交流と台頭を置いている。これは『ゴシック』にもみられる、この世から消えゆく者たちの声の記述でもある。少数民族でエルフのようでもあるマキアは、物語を通じて、血肉を備えた存在として現れる。
二つ目は、時間差が生む愛着と哀しみだ。これは、『凪のあすから』の中盤にも使われていたギミックだ。個々人の時間の流れの差が生む哀しみを、最大限に引き出すのに効果的である。こうした時間差の仕掛は、児童文学の『トムは真夜中の庭で』など、古今東西さまざまな形で用いられている。