話題になっている『君の名は。』をやっと観ました~。違う友人とそれぞれ行って2回。個人的には、円盤を買っても良いなと思うくらい、楽しめました。以下、ネタバレあり感想です。
新海誠監督はこれまで、世界系の代表監督と言われてきた。作品名より監督名が先行すると言って良いくらい、作家性の強いアニメ監督として、ある種、カルト的な人気を誇ってきた。
新海作品の特徴の一つは、何といっても、男性主人公による長いモノローグだ。これまでを少し振り返ってみると、例えば、初期の自主制作短編『彼女と彼女の猫』(1999年)では、一人暮らしの若い女性が拾った雄猫のモノローグで、女性と猫の日常生活が綴られる。その中で、女性はセリフが一切ない。
また、ミニシアター系映画館で全国公開された『秒速5センチメートル』(2007年)は、主人公男性が思春期に出会った、3人の忘れがたい女性との話。主人公男性の、詞的で内向的な視点が中心となって、折々で彼のモノローグが効果的に用いられている。
これまでのほとんどの作品は、ナードな男性中心主義の視点で綴られており、理想化された女性が出てくる。生身の女性とは、決して向き合わない態度の、悪く言えば内向的で独りよがり、よく言えば繊細かつ壊れやすい心象風景を、美しく描いてきた。
ところが、『言の葉の庭』(2014年)では一変して、傷つき、すれ違いつつも、主人公男性と相手の女性がぶつかり、しっかりと向き合っている。ここで初めて、監督の中に、女性に対する心境の変化があったようにみえた。もしくは、ドラマを作る技術が向上し、登場人物に対して少し距離を置き、客観的な視点で物語を構築できるようになったのかもしれない。
今回の『君の名は。』(2016年)を語る前に、まずはストーリーについて、先行する作品『秒速5センチメートル』を、少し参照する。『秒速…』では、中学生の主人公が、雪の日に学校をさぼって、遠方に引っ越した、恋い焦がれる元同級生の少女に会いに行くシークエンスがある。もっと前の天気の良い日に、会いに行けるにも関わらず、なぜこの日を選んだのか。その答えは用意されていない。
悲劇と焦燥感の演出のために、悪天を用意したのだろうが、それが却って安い悲劇になっている。帰宅できなくなってその辺の小屋で二人が一夜を明かすというのも、親などに心配と迷惑をかける上、それに対するフォロー的な要素も見当たらないため、幼児的で自己中心的な行動にみえる。
翻って『君の名は。』はそうした、うかつさが気にならない。例えば、高校生である三葉が、思い立って瀧に会いに行くシークエンス。時間差により、二人の間の状況や記憶の差があることで、悲劇性は十分に用意されている。そのため、安易な悲劇的要素を入れなくても、観客に主旨が伝わる。
本作は、男女の入れ替わり、時間差という2大要素が、ひとつの軸となっている。これは、小説、漫画、実写映画など、さまざまな先行する作品で使われてきた設定だ。ただし、入れ替わる二人の住む場所が遠く、知り合い同士でもなく、知り合う機会も無かったという点が、珍しい。
また、民間伝承や、ヒロインの実家が古い神道を司る家柄であるなど、和ものファンタジー要素がある。そして、「糸」と「結ぶ」ことが、物語を構成するもうひとつの軸となっている。主人公カップルを繋ぐ組紐、先祖や親子との遺伝子やへその緒の繋がり、運命の(赤い)糸などが、連想的に繋がっている。また、異界と出会う黄昏時という設定を、効果的に使っていた。
全体のテンポ感もよく、通常のシークエンスと、MVのようなシークエンスの組み合わせで全体を構成し、時間の経過や、ストーリーの盛り上がりをうまく表現していた。
風景でいえば、新海監督の特徴に挙げられる、空の美しさ、風景の輝きや、アニメ的なリアリティも、良く表現されていた。例えば、糸守町の祭りの前、木材に釘を打っている準備のシーンでは、金槌で釘を打ち付けたあとに、木材にわずかに付く黒い輪状のあとまで描かれていた。
また、クライマックスで、三葉が走る際の、脱力気味の腕と足の振り方が、実際の動きを参照・変換し、うまくアニメとして表現されていた。
一方で、キャラクターの泣き方は、顔を流れる全ての涙が、最終的に顎の一番尖った部分に集まるという、京都アニメーションの特徴的なデフォルメの手法が引用されていた。
キャラクターの性格と行動で、少し違和感を覚えたのは瀧の設定だ。彼の身体が最初に登場するシーンで、自室の壁に、既にスケッチの紙が貼ってあった。もともと、建物や風景に興味があり、絵を描くことが好きで得意な人という設定なのだろう。
そんな高校生の彼が、バイトをしているとはいえ、1600円するパンケーキのカフェに、学校帰りに親しい友人と気軽に寄るというのは、リアリティが感じられなかった。
たとえバイト料が高かったとしても、建築や風景に興味があって絵を描くのが好きならば、写真集などの本や、画材を買うお金はいくらあっても足りない。参照画像を仮にネットからのDLで全部済ませているとしても、本当にそれらが好きなら、実際に足を運んで観察すると思うので、交通費や経費を念出するために、飲食費は削るのではないだろうか。
これがもし、料理に興味のある、将来はそちらへ進みたいと考えているキャラクターならば、もっと自然だっただろう。彼の住む家が、都心から少し外れた、中流家庭向きのマンションに見えたので、そうした違和感を覚えた。
本作は、RAD WINPSの音楽と、アニメ映像のタイミングが、ち密に構成されている。RADの曲が流れるのは4か所。冒頭、入れ替わり生活をコミカルに省略して描いた個所、糸守町でのクライマックス、そしてエンディングだ。いずれも、ドラマの見せ場となるシークエンスで使われていた。
歌のある曲を作中で多用する実写映画は珍しくない。しかし、音楽映画やバンド・歌手が主人公でない作品で、同じバンドの曲が複数流れるのは、珍しい。そのせいか、これに違和感を持った友人が一人いた。
また、大学院で映画研究をしている友人が指摘していたのが、女性=三葉=田舎=伝統=周辺=自然 VS 男性=瀧=都会=現代=中心=人工という対比だ。最後、三葉はけっきょく、東京で暮らし、男性の場に回収されている。とても男性中心主義的な対比構造があると言われた。確かに、エコ・フェミニズム的な視点から観ると、単純で旧来型の、男性中心主義的な対比構造が大枠で埋め込まれている。
これまでの新海作品も、男性中心主義的で理想化された女性という典型な脚本やキャラクター設定がほとんどだ。新海監督の脚本が、例え無意識的にでもそうなっているのは、男女関係の不均衡さへの意識の欠如があるからだろうか。
他にも、壮麗な彗星による未曽有の悲劇的な天災事故=3.11という対比、時間を超えてそれに抗い克服する主人公たち、など、キーワードになる要素がてんこ盛りだった。てんこ盛りだけれど、うまく、省略と整理がされていた。
細かいことはともかくとして、私個人はかなり良かったです。パンフも買ったし、たぶんメディアも買います。。今年の晩夏は劇場版長編アニメーション作品が多く、広島国際アニメーション映画祭へ、珍しく参加できなかったので、実に嬉しい限り。